思い出の傘を広げて

 私はカレンダーをめくった。五月の日付が目に入る。
「ふぅ……」
 私にとって、一番憂鬱な季節がやってきた。
「そろそろ実家に帰らないと…………」
 五月九日。毎年、この日を迎えるたびに私は、故郷に帰る。両親に用があるわけじゃない。この日は「彼」の、初恋の人の命日なのだ。

「…………」
 私は、去年までと同じように彼のお墓の前で、手を合わせた。
(ごめんなさい)
 心の中で呟くのは、いつもその言葉だ。その言葉以外、私が彼にかけていい言葉なんてない。
「…………はぁ」
 立ち上がるのと同時に、私はわざと大きく溜め息をついた。そうでもしないと、涙を我慢することが出来ない。
(……帰ろうかな……)
 そう思って歩き出した私の耳に、遠くからチャイムと子どもの声が聞こえてきた。多分、私の母校からだろう。懐古の念にかられ、私は十年振りに母校に行ってみることにした。
 学校に着くと、ちょうど休み時間らしく、校庭にはたくさんの子ども達の姿があった。みんな、楽しそうに笑い合っている。微笑ましいその光景を、私はしばらく眺めていた。
 やがてチャイムが鳴り、子ども達は一斉に教室に駆け込んでいく。しかしその中に、子ども達の流れに逆らいながら、私の方へ歩み寄ってくる人物がいた。その人は、私に手を振っている。
(あ……)
 懐かしいその人物に、私も手を振って答えた。
「おひさしぶりです、校長先生」
「ええ、ひさしぶりね清水さん。いつ帰ってきたの?」
「昨日です」
「そう。今年も、彼のお墓参り?」
 校長先生は、昔とちっとも変わらない穏やかな表情で私を見つめてきた。
「ええ……」
 私は少し顔を伏せ、表情を見られないように答えた。この学校の先生なら、みんな知っている。私と彼のこと。
「そう……。あれから、あの場所には行った?」
「……いいえ」
「そうよね………。でも」
 校長先生は、まるで子どもをあやすように私の頭を撫でながら言った。
「今日、もう一度行って来たらどう?」
「…………でも……」
「あの場所ね、もうすぐ入れなくなるの」
「え?」
 私は、自分でも驚くほど素早く顔を上げた。
「どうしてですか?」
「二ヶ月前に買い手が決まって、もうすぐ私有地になるの。そうなる前に、もう一度だけ行って来たら? 大切な場所なんでしょ?」
 私は、すぐには答えられなかった。もう一度あの場所に……。確かに大切な思い出がある場所だけど、あの風景は間違いなく、私にあの時のことを鮮明に思い出させる。
「…………」
「どうかしら?」
「……分かりました。最後にもう一度だけ、行って来ます」
「よかった。全部あの時のまま残してあるから、しっかり目に焼き付けておいて。たとえ、辛い思い出の場所でもね」
「…………はい」
 こうして私は、二度と行かないと心に決めていたあの場所へ、もう一度だけ行くことになった。

「……こえ」
 小学五年生の時、突然の雨で帰れなくなった私に、彼は自分の傘を揺すりながらそう言った。
「え?」
「……こえに、あいっていいよ」
 彼の言葉は少し、おかしかった。でも私は、彼の身振りで言いたいことを理解した。
「……入っていいの?」
「ん……」
「ありがと」
 私は、特に何も考えずその厚意を受け止め、彼の隣に並んだ。彼はそれを確認して、ゆっくり歩き出した。
「何年生?」
「……おくえん」
「おくえん?」
「……おく」
 彼はそう言って、指で六を示した。
「六年生なの? じゃあ、一つ年上なんだ」
「ん」
「ねえ、なんでそんな喋り方してるの?」
「…………」
 彼の表情が、微かに曇った。小学五年生だった私は、その時やっとそれを理解した。
「…………うまく喋れないの?」
 彼は黙ったまま、小さく頷いた。彼が生まれつき障害を持っていて、言葉をうまく喋れないことを知ったのは、もっと後のことだった。ただ、この時初めて私は、人のために泣いた。
「ごめんね……」
「あいじょうぶ。あいじょうぶ」
 彼は、突然泣き出してしまった私をただ優しくなぐさめ、家まで送ってくれた。
 これが、私と彼の出会いだった。
 それからというもの、私は学校が終わるたびに彼の姿を探して、一緒に帰るようになった。彼は、いつも笑って私に付き合ってくれた。
「名前? 清水唯だよ」
「しいず、うい?」
「うん。清水唯」
 私は、いつの間にか彼の言葉をすぐ理解出来るようになっていた。彼もそれが嬉しかったのか、彼だけの秘密の場所を私に教えてくれた。
「うい、こっち」
 彼はそう言って、学校の裏にある山の中に私を導いた。
「ちょっと、待って……」
 彼は、慣れた足取りでどんどん奥に入っていく。その背中を見失わないように、必死で歩いていた私の目の前に、そこは突然現れた。
「……すごい……! これ、全部自分で作ったの?」
「ん」
 彼は、自信ありげに大きく頷いた。
 そこは、自然の公園だった。木の枝にロープをくくって作った大きなブランコや、迷路のようになっている場所があり、彼はそれを一人で作って遊んでいたと、私に教えてくれた。
「私も、ここ使っていいの?」
「ん、いいよ」
「やった! ありがとー!」
 その日から、毎日学校が終わるとその場所に来ることが、私と彼の習慣になった。

「うい、こっちきえ」
 彼が、高い木の枝の上から手招きしていた。
 その場所で遊ぶようになって、もう何日も経っていた。だけど、何度言われても私は、あの木だけは登れずにいた。
 でもその日、私は勇気を出してその木に登ることにした。
「うい、がんばえ」
 頭の上から、彼の声が聞こえていた。私は途中で何度も休憩しながら、最後は彼に引き上げてもらって、やっと彼の隣に座ることが出来た。
「…………」
「…………」
 学校が、帰り道の友達が、自分達の街が夕焼けに染まっていく。私達は、会話をすることを忘れたように、ただ肩を並べてその光景を眺めていた。
「…………そろそろ、帰ろっか」
「……ん」
 少しずつ星が輝き始めた頃、私達は家に帰ることにした。私が先に木を降り始めた。しっかり枝を掴み、すぐ下にある枝にそっと足を下ろす。
 その時だった。
「あっ!!」
 足が滑り、私の体は一瞬空中をさまよった。
「唯!」
 だけど、彼が伸ばしてくれた手に助けられ、私はなんとか別の枝に移ることが出来た。
 でも……。
 彼は、突然その腕にかかった力を支えきることが出来ず、そのまま――――数メートル下の地面に叩きつけられた。
「!!」
 私は慌てて、木を飛ぶように降りて彼の元へ駆け寄った。
「大丈夫!?」
「……うい、あいじょう、ぶ?」
「ごめん、ごめんね!」
「…………あいじょうぶ……」
 そう言って彼は、苦しそうに、それでも私に笑ってくれた。
 私は泣きながら学校に戻り、先生に事情を説明した。やがて大騒ぎになり、何人もの先生が彼の元まで向かった。救急車が呼ばれ、彼はすぐ病院に運ばれた。
 しかし…………。
 彼は、泣く私を「あいじょうぶ」となぐさめながら手術室に入り、数時間後にそのまま亡くなった。
「打ち所が悪くて、折れた肋骨が内臓に刺さっていたんですって……」
 病院の廊下で、校長先生と他の先生が話していた。少しして、校長先生が私に気付き、駆け寄ってきた。
「清水さん! 大丈夫だった? 怪我はない?」
 私は黙ったまま、顔も上げずにその場を離れた。
「清水さん……」

 病院を出ると、私はその場に座り込んだ。もう涙を我慢する力さえ残っていない。
「ごめんね…………」
 私は泣きながら、その言葉ばかり繰り返していた。
 彼が死んだのは私のせいだ。なのに、誰も私のことを責めず、冷たくなった彼の体だけが私に、自分の罪の重さを感じさせた。
「唯」
 彼のその言葉に、私は気付いていた。いつか彼に、そう呼んでほしいと願っていた。まさか、あんな形になるなんて…………。

 …………雨だ。
 私は、いつの間にか学校の玄関にいた。あの時と同じだ。
「……こえ」
 私の前に、やはりあの時と同じように彼がやって来た。自分の傘を揺らしながら。私は、動揺する気持ちをなんとか押さえている。
「……こえ、あげう」
(え……?)
 どういうことだろう。あの時と言葉が違う。
「…………貰っていいの?」
「ん……」
 私は困惑しながらも、彼が差し出した傘を受け取った。すると彼は、くるりと後ろを向き、駆け出した。走りながら、大きな声で、
「うい、ばいばい!」
 そう叫び、彼の姿は雨の降る校庭に溶けるように消えていった。
「あ……!」
 私は、彼の姿を追って校庭に出た。でも、もう彼の姿は見つからなかった。

「…………」
 私は、思い出の場所のブランコに座っている。今のは何だったんだろう。夢だろうか。
 あの時と何も変わっていないこの場所で、昔のことを思い出しているうちに、ボーってしてしまって……。
「……あ…………」
 その時、私の頬に滴が触れた。空を見ると、どんよりと曇っている。早く帰らないと、今にも雨が降ってきそうだ。
 私は、もう来ることがないであろうこの場所に別れを告げ、学校の方へ歩き出した。
 少しずつ、雨が降り始めた。私が走ろうかと思った時、道の端に落ちてある、いや、置かれてある物に気付いた。
(これ……)
 それは間違いなく…………。
(そうだ!)
 私はそれを手に持ち、急いで走り出した。彼のお墓に向かって。
「はぁ……はぁ……」
 雨が強くなってきたがそんなことは気にせず、私は彼のお墓まで走った。私には、まだあった。彼に伝えなければいけない言葉が。
(…………)
 彼のお墓の前まで来て、私は手に持っていた物を広げた。あの日彼が入れてくれた、そして、さっき彼が私にくれた、彼の傘。
「これ、ほんとに貰ってもいいの?」
(……いいよ、あげう)
 どこからか、彼の声が聞こえた気がした。私は精一杯の笑顔を彼のお墓に向けて、その一言を彼に伝えた。
「ありがと!」

 降りしきる雨の中、私は笑顔で家へ向かって歩いていく。
 小さな、子ども用の傘を広げて。




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