「信じる、信じないはお前の自由だ。俺は真実しか教えない」
男は静かにそう告げた。男の前には、若い女性が一人。微動だにせず立ち尽くしている。
その瞳は淀んだ光を宿し、目の前にいる男ではなく、どこか、遠い場所を見つめている。
「嘘よ、そんなの嘘……嘘、嘘うそうそうそ……――――」
やがて女性はうわごとの様に呟き始め、ふらふらとその場を立ち去った。
(…………)
軽く息をつき、男は空を見上げる。
「いったい、いつまで続くんだ…………?」
男は愁いを帯びた声で呟いた。たった独り、終わった世界で「目覚めている」孤独。
しかしどんなに願おうとも、男がその世界から消えることは許されなかった。
〜Real〜
午前十時。聖〈たかし〉にとっては、少し遅い目覚めだった。
あくびを噛み殺しながら玄関を覘く。姉の靴はすでにそこにはない。
(まだ怒ってんのかな……)
聖は昨夜のことを思い返した。
『ねえ、あたしの鞄知らない? ここに置いといたんだけど』
『あっちに持って行った』
『またぁ? 勝手に触らないでって言ったでしょ』
『邪魔だったんだよ、触られたくなかったら片付けろよ……』
『聖だって部屋散らかしてるくせに、偉そうに言わないでよ』
それからしばらくの間、聖と姉は言い争っていた。
それはよくある光景だった。始まりはくだらない事。時間が経てば、どちらからともなくいつものように会話が始まる。二人はそんな姉弟だった。
時計を見る。今日の大学の講義は十一時からだったことを思い出した。
「あ〜……」
聖は大きく伸びをした。そして、朝から憂鬱になってしまった自分をごまかす様に、テキパキと準備を始めた。
「……し…………たかし……」
(…………)
「……たかし…………ねえ、聖ってば」
「……え? ああ、悪い」
ハッと我に返り、聖は隣を見た。彩花が不思議そうに聖の顔を覗き込んでいる。
「どうしたの? なんかあった?」
「いや、また姉貴と喧嘩してさ」
聖は天井を見つめながら答えた。いつも来る大学の食堂。隣には彩花が座っている。
「そうなんだ……。気にすることないよ、いつものことじゃん」
彩花は笑顔でそう言った。慰めようとしているわけではないのだろうが、その言葉には気持ちを落ち着かせるような自然な優しさが感じられる。
「そうだな」
視線を下げ、聖は優しく笑った。
「それより、あれ完成したんだろ?」
「あ、そうそう! 講義が終わったらチェックするから、いつもの教室に来て、だって」
「晴菜さんが?」
「そ、忘れないでね」
そう言いながら席を立ち、彩花は食堂を出た。振り返り、手を振るのを忘れずに。
※
いつもと同じ帰り道。
いつもなら、彩花と並んで歩く帰り道。
だが、今日は俺一人。
(なにが悪かったんだろうな……)
きっとなにも悪くなかった。恋人同士の小さな言い争いなんて、どこにでもある。
(それでも……)
と、俺は思う。それでも、俺がもう少し慎重に行動すれば、もしかしたらこんなことにはならずに済んだかも知れない。
「はぁ…………」
無駄に大きな溜め息をつき、俺は家に帰った。
家に帰ったところでなにもする気になれず、俺はそのままの格好でベッドに倒れこんだ。ゆっくりと目を閉じ、思いをめぐらせる。
彩花の怒った顔。怒鳴りあう二人。言葉を吐き捨て、背を向ける俺。
そんなものばかりが頭に浮かんだ。
(これが夢ならよかったのにな……)
そんなことを考えながら、俺は意識を閉じていく。
明日、謝ろう。眠りに落ちる寸前、素直にそう思った。
なによりも先に、まず感じたこと。
"ここは地獄だ"
そして次に、これは夢なんだと思った。
俺が目覚めたその場所は、ただの荒野だった。そこにあるのは瓦礫の山だけ。
ビルの残骸。崩れ落ちた家屋。電柱は折れ、電線が地面に垂れ下がっている。
そしてその瓦礫の世界で、人々はただ眠っていた。俺が目覚めたその場所も、瓦礫の上だった。
「……どうなってんだよ…………」
俺は瓦礫の上から周囲を見渡した。どこまでも瓦礫の山が続いている。
そこは、静か過ぎる世界だった。
「…………ん?」
何気なく視線を落とすと、そこに一人の男を見つけた。誰もが眠っているこの世界で、その男は小さな瓦礫に座り空を眺めている。
あまりに真剣なその眼差しに、俺もつられて空を見上げた。遮る物のない空は、見たこともないほど青く晴れ渡っていた。
「おい、そこのあんた!」
俺は大きめの声で男を呼びながら、瓦礫を駆け下りた。男はゆっくりと視線をこちらに向け、なにが不満なのか遠目にでも分かるほどに表情をしかめた。
男の目の前まで辿り着き、俺は呼吸を整える。男は俺がなにか言うのをじっと待っているようだ。
「……あのさ、これって夢だよな?」
我ながら、意味の分からない質問だと思った。夢の中の住人にそんなことを尋ねたところで、まともな答えが返ってくるわけないのに。
男は表情一つ変えずに、低い声で呟いた。
「お前も、幸せな日常が相当嫌いなようだな…………」
「……は?」
俺は間抜けな声を出してしまった。初めからまともな返答など望んでいなかったが、返答にさえなっていない意味不明な言葉に、どう対応すればいいのか。
「あー…………えっと……」
言い淀む俺に構わず、男は言葉を続ける。
「お前が今まで存在した世界は、創られた夢だ。お前は夢から覚め、現実に戻ってきた」
「…………は?」
不意に核心を突かれ、俺はしばらく呆然とした。頭が働かない。聞き間違いかとも思った。
「……ここが、現実?」
「ああ、そうだ」
だが男は、俺の問いに間髪空けず頷いた。その言葉には一片の躊躇いもなく、俺は二の句を告げることが出来ない。
そんな俺に遠慮することなく、男は言葉を吐き出していく。
「よく思い出してみろ。お前が今までいた世界での記憶、澱みなく思い出せるか?」
「記憶……? そんなこと言われても、そんなに昔のことは……」
完全にペースを奪われ、俺は男の言うとおり記憶をさかのぼっていった。
彩花との喧嘩、彩花と出会ったこと、大学に合格した日……。
(……あれ?)
俺は小首をかしげた。なにかがおかしい。子どもの頃から今に至るまで、すべてではなくても確かに覚えている。だが、ある日の記憶にだけ違和感を覚えた。
それは大学の入学式。確かに俺は大学に向かい、入学式に出席していた。その記憶はある。
しかしなぜか、その記憶には現実味を感じない。まるで、途切れた二つの記憶を繋ぎ合わせるために作られたような、そんな印象がある。
「……記憶を繋ぐ…………?」
俺は無意識にそう呟いていた。俺の言葉を聞いて、今まで仏頂面をしていた男はやや満足げに口を開いた。
「なかなか呑み込みが早いな。それなら大した苦労もなく理解出来そうだ」
理解。
その言葉に、俺は微かな恐怖を感じた。理解してはいけないことが今、目の前に提示されようとしている。それを理解してしまえば、もう俺はどこにも向かうことが出来ない。
――――それでも俺は、その場を離れようとはしなかった。逃げようと思えば逃げられる。だがきっと俺は、すでに理解しているのだ。
もうすでに、向かう場所などないということを。
「お前には二つの選択肢がある」
俺は男の目を見た。視線を外すことなく、男は続ける。
「真実を知るか、この場を立ち去るか。俺に出来るのは話をすることだけだ。決める権利はお前にある」
その選択は、男の優しさなのだろう。真実を突きつけられるより、なにも知らないままの方がいいこともある。
もっとも俺は、なにも知らずに終わるつもりなどなかったが。
「……いいよ、話してくれ。このままじゃ終われない」
「そうか」
男はあっさりと頷き、ゆっくりと周囲を見渡した。俺も男の視線を追うように、辺りを見渡す。瓦礫だけの世界が、当然のように広がっていた。
「この世界は現実だ。一年前、なんの前触れもなく世界は滅びた。原因はもはや誰にも分からない。多くの生物が死んだ。俺は生き残った者を眠らせ、一人でこの世界に残った」
男は細かく説明することも、言葉を濁すこともなく、淡々と核心を語っていく。
言いたいことはあったが、俺はあえて黙っていた。この世界を前にすると、何もかも信じるしかない気がしていた。
「お前がいた世界は、俺が創った夢の中だ。その夢は、本人の意思がない限り覚めることはない。『こんな世界は嫌だ』『この世界が夢ならよかった』――――そんなことを考えない限りはな」
そういって、男は睨むように俺を見つめた。俺は男の言葉を思い返した。
『お前も、幸せな日常が相当嫌いなようだな…………』
あの言葉の意味が、今分かった。
確かに俺は彩花と喧嘩をして、これが夢であってほしいと思った。それがどれだけ贅沢な考えだったのか、今なら分かる。
目の前の男にしてみれば、たとえどんな日常でもこの世界に一人でいるよりはずっといいはずだ。
「お前はどんな事件に遭遇したんだ? 日常に絶望するほどの不幸があったのか?」
「……いや、話せるようなことじゃない…………」
俺は、自分が情けなくて仕方なかった。どれだけの幸せを踏みにじってここにいるのか。
虚無感が俺を支配した。
「……あんた、さっき夢を作るとか言ってたよな? どういうことだ?」
俺は、とにかくなにか話そうと思ってそう切り出した。このまま黙ってしまうと、絶望に押しつぶされそうだった。
そんな俺の内心に気付いているのか、男はすぐ俺の言葉に答えてくれる。
「言葉のとおりだ。こんな現実を突き付けられれば、ほとんどの人間は絶望するだろう。だからそうならないように、俺の記憶をベースにした限りなく現実に近い夢を見せている。現実との交点だけは、不完全になってしまったがな」
「…………」
「そして俺は、お前のような者のためにこの世界にとどまることになった」
男は簡単に言うが……。
「なんでそんな力を持ってるんだ? それに、どうしてあんたなんだ?」
さすがに、そう聞かずにはいられなかった。
「……そんなもの、俺が知りたいくらいだ」
男はひどく不機嫌そうにそう吐き捨てた。
「分からないのか…………?」
「ああ。俺自身こんな力を持ってるなんて知らなかった。だがあの日、突然誰かの声が聞こえた。世界が滅ぶことも、俺の役目もその時知った。まったく、とんでもない運命に見舞われたもんだ」
淡々と語る。俺は言葉を忘れたように押し黙り、男を見つめた。きっと疑っていると思われたんだろう、男は慣れた調子で俺に言った。
「信じる、信じないはお前の自由だ。俺は真実しか教えない」
俺は目で疑っていないことを訴え、空を見上げた。今更なにを疑っても意味がない。
「……終わらせたいなら協力するぞ」
男はそう言った。その意味はよく分かる。実際に、絶望して終わりを選んだ人はたくさんいただろう。
「いや…………」
「そうか」
俺の返答を聞き、男は元いた場所に戻っていった。俺は男の背中を少しの間眼で追っていたが、再び視線を空に戻した。
悲しいほど静かな世界。俯いてしまうと零れそうになるものを隠し、俺はただ空を見上げていた。
遮る物のない空はどこまでも高く青く、この世界には不釣合いなほど美しく広がっていた。
※
「……どう? 感想は」
映像が流れ終わると、晴菜が聖の顔を覗き込んだ。
「んー……まだ修正の余地はあるけど、だいたいオッケーだと思いますよ」
「私もそう思います」
聖の隣に座っていた彩花が、晴菜の顔を見て笑った。晴菜は大きく溜め息をついた後、二人の表情を交互に見つめた。
「よし! それじゃ最終調整して、いよいよ公開よ!」
そう言った晴菜は満面の笑みを浮かべていた。
聖と彩花は、晴菜と共に映画製作サークルのメンバーとして活動していた。三人の他にメンバーはいない。
そこでメンバーを集めるため、三人は宣伝用として簡単な映画を作ったのだ。
「でも聖、なかなか演技上手だったよ」
「そうか? 一人二役だってバレバレだろ」
彩花は褒めてくれるが、聖はどうも自分の演技に納得出来ていなかった。
「これだけ出来れば十分よ、聖君」
晴菜が、映像を編集する作業を中断してそう言った。
「そう言ってもらえれば嬉しいですけど……。やっぱり俺、脚本書いてる方が向いてますよ」
「そう? でも、これからもお願いね。脚本を書けて演技が出来るなんて、貴重な戦力なんだから」
嬉しそうに話す晴菜を見て、聖は苦笑しながらも頷いた。
「分かりました、頑張ります」
解散した後、聖と彩花は並んで帰り道を歩いていた。
「ねえ、聖」
「ん?」
「あの脚本ってさ、どうやって考えたの?」
少し先を歩いていた聖は速度を落とし、彩花が隣に来たのを確認してから口を開いた。
「どうやって、って言われてもなぁ…………。なんて言うか、突然頭の中に映像が流れてきたんだよ。それがなかなか面白かったから、ちょっと手を加えてそのまま脚本にしてみたんだ」
「そうなんだ……」
彩花は聖に遅れないように、少し早足に歩いている。
「でも、どうしたんだ?」
「ううん、なんでもない」
「そっか」
その後は他愛のない会話をしながら、二人は家路に着いた。
結局彩花は言いだせなかった。大学の入学式の日、その日の記憶に微かな違和感を覚えていることに。
それを感じているのは、彩花一人ではなかったが――――。
(まだ帰ってないのか……)
玄関を開けても、そこに姉の靴はなかった。
(ったく……)
聖は荷物を部屋に置いて、二人分の食事を作り始めた。それは、よくあるいつもの光景。なにも不思議ではない、日常だった。
それでも…………。
(まさか……な)
聖は、ふと浮かんだ不安を拭い去った。そんなことがあるわけない。
もう姉が帰って来ないなど…………。
「……サラダも作るか」
冷蔵庫を開け、聖は野菜をいくつか取り出した。
※
その日は彼女にとって、平凡な日常の一コマになるはずだった。
昨日は結局聖と仲直りすることなく、少し気まずいまま今日を迎えた。大学ではいつものように勉強をし、友達と話した。
そして帰りの電車の中、彼女は聖に謝る言葉を考えていた。そのすべてが、代わり映えのない日常。
ただいつもと違うとすれば、彼女が少し投げやりになっていたことだろうか。
(なんで喧嘩なんかしちゃったんだろ。謝らなきゃいけないって分かってるのに……)
それは試験が近いからかもしれないし、大学で友達の愚痴を聞き続けていたからかもしれない。
しかし、どちらにしてもたいしたことではない。少し疲れていただけだ。だから彼女は、そんなことを考えてしまったのだ。
(ハァ、あれが夢ならよかったのに…………)
目的の駅まではまだ時間がかかる。家につく頃には、きっと謝る言葉も見つかるだろう。
そう思って、彼女は揺れる電車の中で眼を閉じた。
目覚めた彼女のいた場所は、いるべきはずの場所ではなかった。
そこは『生』とは程遠い場所。崩れたビルの残骸、その中に横たわる多くの人々。彼女はそんな世界に立ち尽くしていた。
「……おい」
背後から突然声がかけられた。
彼女が慌てて振り向くと、そこには男が一人立っていた。その瞳は暗く深く、悲しみと怒りを同時に浮かべている。
「あ、あの……ここは…………?」
彼女は恐る恐る口を開いた。聞きたいことはたくさんあるはずなのに、なにを聞けばいいのか分からない。
自分は一体なにをしているのか、それさえも分からなくなってきていた。
そんな彼女とは対照的に、男は落ち着いた態度で彼女を見つめている。この状況に慣れているようで、彼女を落ち着かせるようにゆっくりと口を開いた。
「言いたいことはあるだろうが、まず俺の話を聞いてくれ。その後どうするかは、お前の自由だ」
そして男は語り始めた。静かな声で淡々と、絶望以外なにも生み出さないその話を躊躇なく。
彼女は嘲笑い、怒りだし、呆れ果て、やがて絶望し、すべてを失う。
男はその行為をただ繰り返していた。決して望んだわけではない。だが、この運命から逃れる術はない。
男は自らに終わりの時が訪れるのを、一人待つしかなかった。
〜Dream〜
一週間。
それだけの時間が経っても、聖の姉が帰ってくることはなかった。警察にも捜索願を出してはいるが、まったく連絡はない。
しかし、今の聖は姉のことだけを心配していることは出来なかった。
「ハァ……ハァ……くそ!」
心当たりの場所をすべて回った聖は、肩を激しく上下させながら携帯電話を取り出した。
『聖! ……ハァ、ハァ…………どうだった!?』
電話の向こうから聞こえる彩花の息遣いも、聖と同様に荒い。
「いや……だめだ。どこにもいない」
聖は呼吸を整えながら、低い声で彩花に告げた。その様子から、ただならない事態が起こっていることは間違いない。
「とりあえず、部室に戻ろう。まだなにがなんだか分かってないんだよ、俺」
『う、うん、分かった』
彩花の返事を確認し、通話を終える聖。電話を持ったままの右手をだらりと落とすと、快晴の春空を睨み付けながら小さく毒づいた。
「なんなんだよ、一体…………!」
聖の姉が消えて一週間。サークルの先輩である晴菜が、忽然と姿を消した。
『晴菜さん、二人家族だったから……』
聖は、部室で聞いた彩花の言葉を反芻していた。
『お父さんは、昔事故で亡くなったんだって。兄弟はいなかったから、晴菜さんはお母さんと二人だけで暮らしてて。でもお母さんも体が弱くて、最近はずっと入院してたの』
彩花の口から、聖の知らなかった晴菜の家庭の話がぽつぽつと語られる。
それは、明るい晴菜の姿しか見たことのない聖にとっては、すぐには信じられないような内容だった。
『今日晴菜さんが見つからなくて、もしかしたらお母さんの所かもしれないと思って病院に行ってみたの。そしたら、晴菜さんのお母さんは昨日亡くなったって……』
彩花はそれ以上口を開かなかった。もっとも、口を開く必要もなかった。それだけ聞けば、聖にも今の状況を十分理解できる。
晴菜と連絡がつかないのも、仕方ないことかも知れない。そう聖は思った。たった一人の家族を失ったのだ。誰だって一人になりたいと思うだろう。
落ち込んだままの彩花を、聖は慰めながら家まで送った。
「そのうち必ず帰ってくる」
彩花にそう言い聞かせる聖。その言葉に、彩花は何度も頷いていた。
だが聖は、心中の不安を彩花に気付かれないように必死だった。それは、姉が消えた日にも感じた不安。
もう晴菜は帰ってこないのではないか。
不意に、聖の頭に自身が作った映画の脚本が浮かんだ。唯一の家族を失った晴菜。その晴菜が、ある思いを抱いたとしてもなんらおかしなことはない。
『これが夢ならよかったのに』
聖の心が、一瞬大きな闇に支配された。それは不快感でもなければ、苦痛でもない。
ただ純粋な「恐怖」。
この世界は、誰かに見せられている夢ではないのか。もしこの世界に絶望したら、自分はあの地獄と呼ぶにふさわしいような現実に目覚めるのではないか。
(いやだ、俺はいやだ。今の、この世界でいい……)
聖は、突然の恐怖を必死にかき消そうとした。早足で、誰も待つことのない家へと急ぐ。この時すでに、聖は壊れ始めていた。
晴菜の行方は依然として分からず、時間だけが淡々と過ぎていく。
彩花と聖の関係は、次第にギクシャクとしていった。晴菜の行方がいつまでも分からないことで、聖の恐怖は確かな輪郭を帯び、聖は四六時中そのことばかりを考えるようになっている。
そんな聖の態度を、彩花が不審に思うのも無理はなかった。これまでほとんど喧嘩をしたことがない二人だったが、もう二人の間で言い争いが起こらない日はなくなっている。
「聖。ねぇ、聖」
「なんだよ、五月蝿ぇなあ…………」
「どうしたのよ、ホントに。いつもいつもぼーっとして。晴菜さんの事信じろって言ったの、聖でしょ」
「……別に、彩花には関係ないだろ」
大学からの帰り道。二人はいつものように肩を並べて歩いているが、最近は聖から話しかけることはまったくない。彩花は必死で話しかけるが、聖のそっけない態度に結局は黙り込んでしまう。
そんな彩花だったが、今日はただ黙るだけでは収まらなかったようだ。
「なによ! これでも心配してるんだから、相談くらいしてくれてもいいじゃない! バカ、もう知らない!!」
思い切り声を張り上げ聖を睨み付けると、彩花はそのまま振り返ることなくその場を走り去った。
聖は声をかけるでもなく彩花の背中を見つめていたが、やがてゆっくりと歩き始めた。
それはまるで、いつか聖達が三人で作った映画のような光景。見慣れた帰り道を一人で歩く聖。だが一つだけ、聖の考えていることだけが映画の中とは違っている。
(姉貴はもう帰ってこない……晴菜さんも帰ってこない。彩花はなにも知らない。俺は、絶対に目覚めない。ずっとこの世界にいたい)
同じ言葉を何度も反芻しながら、家路を辿る聖。
聖には、もう何も見えていない。ただ現実に目覚めることを恐れ、この世界にい続けることだけを願っている。
信号を無視し、聖に迫る一台の暴走車。そんなすぐ目の前の危険にさえも、聖はまるで気付いていなかった。
「…………ん……」
聖はゆっくりと目を開いた。
目に入ったのは、白い無機質な天井に蛍光灯。そして、今にも泣き出しそうな彩花の顔だった。
「……彩花?」
「聖…………」
彩花は震える声で呟き、まだ意識の覚醒しきっていない聖の頬に優しく触れた。
「……ごめん、ごめんね。やっぱり、一緒に帰ればよかったね……。まさか事故に遭うなんて思わなかったから……」
(……そうか、事故か……)
判然としない意識のままで、聖はなんとか状況を理解した。
考え事をしていた聖は、迫る暴走車に気付かずに撥ねられたのだ。全身に鈍い痛みは残っているが、痛覚があるということは最悪の状況には至っていないということだ。
それを確認し、聖は彩花の瞳から溢れた涙をそっと拭った。
「お前のせいじゃないから…………気にするなよ。俺も悪かった」
「でも……それでもごめんね、聖……」
抱きついてくる彩花を、聖はそっと抱きしめた。
二人の間に確かに存在している絆。全身に走る鈍痛さえも、聖にそれを伝えているようで心地よく思えた。
やがて面会時間も終わりに近付いた頃、聖は夢うつつに彩花の声を聞いた気がした。
"…………なんで怒鳴ったりしたんだろ。聖のこと、こんなに好きなのに……"
(……彩花、それ以上言うな…………)
しかし、聖に彩花の言葉を遮ることは出来なかった。
"こんなの、夢だったらいいのに…………"
(彩花!!)
病室のドアが閉まる音と共に、聖は目を覚ました。慌てて上半身を起こし、痛みも構わず周囲を見渡す。だが、そこに彩花の姿はない。
その日以来、彩花が聖の元を訪れることはなかった。
退院してから一ヶ月、聖はどこにも行かず一人家にこもっていた。ちゃんとした食事も摂っていない聖の身体は痩せ細り、いつ倒れてもおかしくないような状態だ。
しかし、そんな聖を心配する人物はもう一人もいない。
「みんな消えた…………姉貴も、晴菜さんも、彩花も……。怖い。こわい。絶対に目覚めない。俺はこの世界にい続けてやる。げんじつはこわい…………!!」
虚ろな瞳でどこでもない世界を見つめ、ただそれだけを繰り返す聖。
なぜ聖は壊れてしまったのか。
聖はなにを恐れているのか。
その答えは、この世界の誰も知らない。
※
"望む平穏は 永遠に迎えられず"
"あらゆるものが 絶望を 享受させんとす"
"最早 縋る者はなく"
"されど独り 現に抗う"
"何故に 尚も 創られし夢を 望むのか"