八月。
太陽が身を隠し始め、空は紅と蒼、二色の衣を纏っている。
そこに咲き乱れる大輪の花。
人々は歓声をあげながら、皆一様に空を見上げる。
小さな姉妹が交わした約束は、誰の耳にも届くことなく、二人の心に刻み込まれた。
ただ、空に咲く花だけが、その様子を見守っている。
※
扇風機の微かな風と、テレビから流れる小さな音。
ソファーで眠っていた美沙は、ゆっくりと眼を開いた。視線の先には見慣れた佳織の顔。いつのまにか、美沙は佳織に膝枕されていた。
「お姉ちゃん、起きた?」
「……おはよ、佳織。ごめん、膝痛くない?」
美沙は、膝枕をされたまま手を伸ばし、佳織の髪を優しく撫でた。佳織は気持ちよさそうに微笑みながら、特徴的なゆったりとした声で答える。
「ううん、大丈夫。それよりお姉ちゃん、時間は? 今日花火だよ」
今日は、毎年恒例の花火大会の日。美紗と佳織は、毎年必ず一緒に花火を見に行っていた。
「大丈夫、花火は七時からだから……」
それほど眠ったつもりもないし、まだ時間はじゅうぶんあるはずだ。
美沙は答えながら、時計へと眼を向けた。
六時五十分。
(…………!)
美沙は慌てて起き上がろうとした。しかし、頭を上げた先には佳織の頭。
「ぃたっ……!!」
「…………お姉ちゃん、痛い……」
時間より少し早く、小さな花火が上がった。
「もうっ! 昼寝なんてするんじゃなかった……!」
慌てて靴を履きながら、美紗は愚痴っていた。
「髪、梳かさなくていいの?」
ぼさぼさの美紗の髪を手櫛で梳かしながら、佳織が尋ねる。
佳織は昔からこうなのだ。いつでも落ち着いていて、その落ち着きが逆に美紗をやきもきさせることも、しばしばあった。
「髪なんてどうでもいいの。どうせすぐそこなんだし」
美紗たちの家の前にある河原からなら、花火は充分見える。歩いても五分とかからない場所だ。
「ほら、佳織。行くよ」
靴を履き終えた佳織の手を引き、美紗は歩き出した。もう走っても間に合わないことはわかっている。
「大丈夫だよ、花火は見えるから」
美紗の隣で、佳織は微笑んでいる。美紗の考えは見透かされているようだ。
(花火は見えるけど……)
美紗は心の中でそう呟いた。
(やっぱり……)
美紗は肩を落とした。あと二分ほどで花火が始まる。河原は、花火を見に来た近所の人達でいっぱいだった。当然、座れる場所などどこにもない。
「どこも座れないかぁ……」
「仕方ないね、立って見ようよ」
くすくすと笑いながら、佳織はそう言った。
「これなら、家で見たほうがよかったかもね」
拗ねたように言ってみる。だが美紗は、家で見ようなどとはまるで思っていなかった。佳織がこの言葉にどう答えるか、美紗には分かっていたからだ。
「ここで見た方が綺麗だよ」
美紗の予想通りの言葉を、佳織は返した。一番辛いはずのその言葉を、佳織は躊躇いなく口にする。
そして、当然のように微笑む。
(…………)
一発目の花火が上がった。まだ少し紅い夏空に、大輪の花が咲く。
歓声と共に、今年も花火大会が幕を開けた。
美紗は夕空を仰いだ。次々に打ち上げられる、たくさんの花火。
まばゆい光に目を細めながら、美紗は佳織と繋いでいる手に少し、力を込めた。
※
美沙と佳織は、近所でも評判の仲のいい姉妹だった。なにをするにも一緒に行動し、二人が喧嘩をする姿など、両親でさえ見たことがなかった。
二人は幸せだった。毎日がとても楽しく、お互いのいない世界など想像できなかった。
九年前に起こったその出来事は、そんな二人にとってあまりにも唐突で、そして、あまりにも残酷だった。
九年前の八月、花火大会の前日。美沙と佳織は、目前に迫った花火大会に胸を躍らせながら、夏休みを過ごしていた。
――――その日、二人が目覚めるまでは。
美沙の隣で、佳織が勢いよく起き上がった。美沙は半分開いた眼を擦りながら、壁に掛けてある時計を眺める。
七時半。
「佳織、おはよ……」
美沙はそれだけを言って、また眼を閉じた。
今は夏休みなのだ。佳織の早起きは今に始まったことではないが、自分はもっと寝ていたい。
明日の花火大会のことを考えながら、美沙はまどろみに身を投じた。
(…………)
しかし、なぜか眠れない。心が妙にざわめく。そのせいで、少しずつ眠気も収まってきた。
しかたなく、美沙は体を起こした。美沙の横で、上半身だけを起こした佳織が茫然としている。
(……?)
佳織の様子がおかしい。よく考えてみると、いつもはすぐに挨拶を返すはずの佳織が、今日はなにも言わなかった。
『おはよ、お姉ちゃん。ごめんね、起こしちゃった?』
いつもの佳織なら、笑顔でそんなふうに答えるはずなのだ。
「佳織……どうしたの?」
美沙は小さく、佳織に声をかけた。
「!」
すると佳織は、なにを驚いたのか急に美沙のほうに向き直った。その表情はまるでなにかに怯えているようで、美沙はその先の言葉を失ってしまう。
「……ぁ、お姉ちゃん……お、おはよ」
力ない挨拶が、佳織の口からこぼれる。いつもの明るい佳織からは考えられないような声。
その場から逃げるように、佳織は立ちあがろうとした。しかし突然バランスを崩して、佳織はベッドに倒れこんだ。
「か、佳織!?」
美沙は、慌てて佳織の傍に駆け寄った。佳織の体はわずかに震え、その目には今にも溢れだしそうな程に涙がたまっている。
「どうしたの! ねぇ!?」
美沙は、佳織の体を何度も揺すった。佳織の顔が、ゆっくりと美沙のほうを向く。美沙を見つめているはずの瞳は、どこか焦点が合っていないように見える。
「……お姉、ちゃん…………」
佳織は震える声を絞り出し、懸命になにかを伝えようとしている。美沙は佳織の口元に耳を近付け、なんとか佳織の声を拾おうとした。
「わ、私……」
いつのまにか、美沙の体も震えている。
怖い。
佳織の身になにが起こっているのか、それを知るのがどうしようもなく怖い。
それでも逃げるわけには行かず、美沙は唾を飲み込んだ。
「……えない……」
「え、なに?」
「……見えない……眼が、見えないの…………」
「…………え?」
すべての音が消えたように感じた。
自分の激しい鼓動だけが、やけに大きく感じる。
美沙は、恐る恐る佳織の頬にそっと手を触れた。
「……っ!」
手が触れた瞬間、佳織は身を震わせ、その瞳からはついに一粒の涙がこぼれた。
流れ出した涙は止まることを知らず、次から次へと佳織の頬を伝っていく。
「手……お姉ちゃんの手も、お姉ちゃんの顔も見えない……」
佳織は震える手を持ち上げ、確かめるように美沙の手に触れた。
「……見えない……なにも見えないよ…………!」
目の前で泣きじゃくる佳織。美沙はなに一つ出来ず、ただ呆然としていた。
なにがどうなっているのか理解出来ないまま、ただ心が痛い。
そして美沙の瞳からも、大粒の涙がこぼれた。
「……ぅっ…………ぅぅ……」
美沙はドアの前で立ち尽くしていた。
佳織の泣き声は、部屋の中から止まることなく聞こえてくる。リビングでは父が、母を優しく慰めていた。
母の連絡を受け、父はすぐに仕事から帰ってきた。
「佳織、大丈夫。すぐに治るからな」
病院に着くまで、父はずっとそう言って佳織を慰めていた。もちろん、皆がそう願っていた。
が、最悪の想像を、誰もが拭いきれずにいたのも事実だった。
結局、佳織が失明した原因は分からなかった。
原因が分からない以上、治療のしようもない。
そう聞いた両親は愕然とし、言葉を失った。美沙も涙を止められず、ただ佳織の手を強く握っていた。その手にはまるで力が入っておらず、美沙は佳織の顔を見ることが出来なかった。
「…………佳織……」
美沙はそっとドアを開け、部屋の中を覗き込んだ。佳織は布団にうつ伏せになり、声を殺しながら泣いている。
ゆっくりと佳織の隣に座り、美沙は佳織の頭を撫でる。
なんと言えばいいのかわからない。
自分には、なにも出来ることがない。
そのことに美沙は戸惑い、知らず知らず自分も泣いていた。
「……助けて、お姉ちゃん………」
佳織が小さく呟いた言葉は、なによりも辛く美沙の心に突き刺さった。
それからの時間は、驚くほど長かった。
家の中は静まり返り、時折、佳織の泣き声が聞こえるだけだった。
(…………)
美沙はなにもする気が起きず、紅く染まっていく空をベランダから眺めていた。
次の日も、家の中は静かだった。
仕事に向かった父を見送ってからは、母はなにもせずソファーに座っている。
佳織は昨日から一度も食事を取らず、部屋に閉じこもっている。
美沙はリビングに寝転がり、眼を閉じた。
これは夢だ。目が覚めれば自分は布団の中にいて、隣では佳織がいつものように微笑んでいる。そう願いながら、美沙は静かに意識を閉じていった。
「……お姉ちゃん…………?」
佳織の声が聞こえた気がして、美沙は慌てて飛び起きた。
まさか、本当にあれは夢だったのか。そう思ってまわりを見渡したが、そこはいつもの部屋ではなくリビングで、ソファーでは母が疲れきって眠っている。
(……そう、だよね)
美沙は溜め息をついた。やはりこれが現実なのだ。そう感じた瞬間、美沙は泣き出しそうになり、必死に涙を堪えた。
「お姉ちゃん……」
だが、今度は確かに佳織の声がした。美沙は眼を擦り、立ちあがって声のするほうへ向かう。
佳織は部屋を出て、壁伝いによろよろと歩いてくる。つまずきそうな佳織の肩を抱き、美沙はソファーまで佳織を導いた。
「…………どうしたの?」
「お姉ちゃん、今何時?」
そう聞かれ、美沙は時計を見つめた。いつのまにか、午後六時を過ぎている。
「もうすぐ六時半だけど……」
「そっか……」
なにが嬉しいのか、佳織は満足げに微笑んだ。そして佳織が口にしたのは、思いもよらない言葉だった。
「お姉ちゃん、花火見に行こうよ」
「……え? だって佳織……」
「大丈夫だから。お願い」
(…………)
美沙は佳織の顔を見つめた。その表情にもう不安はなく、今までの、美沙がよく知っている明るい佳織だ。
「…………。うん、わかった」
佳織の手を握り、美沙はゆっくり玄関に向かった。佳織は美沙の手を握り返し、本当に嬉しそうに笑った。
「…………」
二人は河原に座って、他のたくさんの人達と同じように空を見上げている。空には、すでにたくさんの花火が打ち上げられていた。
今頃家では、母が慌てて二人を探しているかも知れない。
ドキドキしながら花火を眺める美沙に、佳織が声をかける。
「……花火、綺麗だね」
(……っ!)
その言葉を聞いて、美沙はなぜかとても悔しくなってしまった。
「嘘つき! なにも見えてないくせに……!」
思わず強い口調でそう言ってから、美沙はうつむいた。
(なんで……なんで、こんなこと……)
なんてことを言ってしまったのだろうか。その言葉が、今の佳織にとってどれだけ辛いか、美沙は知っていたはずなのだ。
「…………うん。嘘つき、だよね」
だが佳織は、泣きも怒りもせずに答えた。
「でもね、お姉ちゃん」
佳織は、なにも映らない眼で美沙を見つめる。花火に照らされるその顔は、確かに笑顔。
「こうやってお姉ちゃんと手を繋いでると、見える気がするんだ。お姉ちゃんが見てる花火が、私にも」
そう言って、佳織は美紗の手を強く握った。
「佳織…………」
美沙は、自分が涙を流していることに気づいた。
それは、悲しかったからではない。佳織のために出来ることがある、そのことが本当に嬉しかったからだ。
涙を拭い、美沙はしっかりと夜空を見上げた。ほんの一瞬も見逃さないように、打ち上げられるすべての花火を目に焼き付けようとした。
「……約束」
美沙は小さく呟いた。佳織がゆっくりと美沙のほうに向き直る。
「これからずっと、私は佳織と手を繋いでる。佳織が見たいもの、全部見せてあげる。どんなに時間がかかっても、佳織の目が見えるようになるまで、ずっと…………」
美沙は視線を落とすことなくそう言って、両手で佳織の手を握った。
「……うん、約束」
佳織も視線を空に向け、美沙の両手と自分の両手を重ねる。
佳織がどんな表情をしていたのか、美沙は知らない。だが美沙は、きっと笑っているんだろうな、と思っていた。
花火は勢いよく、夜空に咲き続ける。静かに交わされた二人の約束を、遥か上空で聞いていた。
※
「……手痛いよ、お姉ちゃん」
「あ、ごめん!」
美沙は慌てて、繋いだ手から力を抜いた。強く握りすぎてしまったようだ。
「ごめん、大丈夫?」
「うん、大丈夫」
佳織は屈託のない笑顔を見せた。美沙はその表情を見つめ、自分も微笑みながら視線を空に戻した。
「どんなに時間がかかっても、ずっと………」
「え、なに?」
佳織が呟いた言葉は、花火の音にかき消されて聞こえなかった。美沙は聞き返したが、佳織は答えず、そのかわり今度ははっきりと言った。
「お姉ちゃん、ありがと」
佳織はそれ以上口を開かず、なにも見えない瞳で花火を眺めた。
(…………)
美沙は、さっきより強く佳織の手を握る。佳織は痛がらず、自分も強く握り返した。
「私こそ……ありがと、佳織」
花火はより勢いを増していく。
遥か上空から、変わることなく二人を見守る。
二人の約束を知っているのは花火だけ。
そして、二人にこれから訪れる幸福も、今はまだ花火しか知らない。