〜懐古〜
ある夏の日だった。
たくさんの人で賑わう公園。その一角に、ファーストフードの露店が出ている。それは特に珍しい光景ではなく、多くの人が足を止め、思い思いの物を買っては笑顔でその場を後にする。
そこから少し離れた場所に、一人の少女がいた。少女はなにをするわけでもなく、じっとベンチに座っている。その視線は、随分前から露店に注がれたままだ。
やがて少女が立ち上った。おもむろに露店の前へ歩み寄り、しかしすぐに注文するわけではなく、しばらくそこに並んでいるものを見つめていた。
「……ソフトクリーム」
囁くような声。少女は売り子に硬貨を手渡し、代わりにバニラのソフトクリームを受け取った。
少女はその場でおずおずと舌を出し、ソフトクリームのてっぺんを舐める。
「…………」
なにかを考え込むように、少女は一度動きを止めた。自分が舐めたソフトクリームを凝視し、再び舌を出す。一度目よりも慣れた様子で、ゆっくりと味わうように白い山を舐めとる。
「あの……どうかしましたか?」
少女の様子をじっと見ていた売り子が、恐る恐る口を開いた。
「……甘い」
そう呟いた少女の目から、涙が溢れていた。止めどなく零れ落ちる涙を気にも留めずに、少女はソフトクリームを口にしている。売り子はどうしていいか分からずに、ただおろおろと少女のことを見つめていた。
ソフトクリームを口にしながら、彼女はいつか交わした会話を思い出していた。
《自由になったら、お前はなにをしたいんだ?》
『そうねえ……。とりあえず、夏になったらソフトクリームが食べたいかな』
《ソフトクリーム?》
『そ。こんな形のコーンに乗ってて、冷たくて甘くて、美味しいの。一度だけ食べたことあるんだ』
《ほぉ》
『いつか……本当に自由になったら、一緒に食べよ』
《……そうだな、興味はある》
『うん、じゃあ約束。絶対気に入ると思うよ。女の子だからね』
それは、本当にささやかな会話だった。まだ少女が平和な日常に憧れていた頃、少女が『その存在』と共にあった頃の、夢の話。その頃は、こんな時間が訪れることをまるで予想していなかった。少女も、少女に宿った『その存在』も。
(約束したのに……)
涙を零しながら、彼女は独りでソフトクリームを食べる。
そして、もうこの世にいない、約束を交わした者との時間を彼女は思い出していた。
〜覚醒〜
「ぁ、ぅ…………あ……」
突然の惨劇を前に、アヤは呻き声を漏らしながら冷たい床に座り込んだ。
アヤの目の前には、赤銅色に染まった人間の残骸。全身に鮮血のドレスを纏い、アヤは震えながら自らの右腕を見やった。凶器と化したそれは、獲物を欲するかのように確かな脈動を繰り返し、アヤに語りかけてくる。
〈私の声が届くか?〉
「ぇ……だ、誰?」
〈私はお前の中に宿る者だ。今、お前は私を見ているだろう〉
アヤが見ているもの。それは先程、アヤの意識から離れ男を貫いた異形の右腕だ。
「腕……? あんたが、これをやったの……?」
〈そうだ。この腕だけは私にも操れるらしい。もっとも占有ではなく、あくまでもお前との共有という形らしいが〉
「……なに、が……なにを、言ってるの? どう……なってるの……?」
状況の理解がまるで追いつかずに座り込んだままのアヤの耳に、聞きなれた音が届いた。
鉄製の廊下を規則的に叩く革靴の音。アヤがなによりも嫌悪する者が、ここに近付いて来ている。
やがて、赤く染まったその部屋には不釣合いな純白の白衣を纏った男が、ゆっくりと姿を現した。
「…………」
男は目の前の惨状にも顔色一つ変えずに、床に座り込んだままの血まみれのアヤを見下ろす。その目は冷酷な程に鋭く、アヤとその右腕を交互に見つめた。
「実験体RA-02……随分と稀有な結果が出たな。単なる強化しか施していないはずの右腕が、形状が変化する程に進化している」
「……私は、人間よ……実験体なんかじゃないっ。そんな記号で呼ばないで!」
「何度も言っているだろう。お前達は、人間ではなく兵器。正確には、それを作り出す為の道具でしかない」
「違うっ……! 私は人間よ!」
〈過度なストレスを感じているな。原因はあの男なのだろう? 殺してもいいんだぞ。今のお前なら出来る。出来ないというなら、私がやってもいい〉
その声と共に、また右腕がアヤの意識を離れてゆっくりと持ち上がると、まっすぐ男に向けられた。
「いや、やめて!」
悲痛な声を上げ、アヤは右腕に力を込めた。すると、アヤの意思通り、右腕はすんなりと下がる。
「え、あれ……? 動かせる……」
〈さっきも言ったが、この腕は私の占有ではなく、お前との共有だ。それに、どうやらお前の意思が優先されるらしい〉
「……共有……あんた、一体なんなの……?」
「一人でなにを言っている?」
アヤを見下ろしていた男が訝しげな表情を浮かべている。どうやら男には、アヤの右腕の声は聞こえていないらしい。
「なにって……私をこんなにしたのはあんた達でしょ! この腕も、声もっ……なんでこんなことするの!? 治してよ!」
はち切れそうな声。アヤは涙を浮かべ、男を睨み付けた。
だが、そこでアヤの声が途切れた。睨み付けた男はそれまでの冷たい無表情ではなく、驚愕の表情を浮かべ大きく目を見開いている。
「今、なんと言った? 声……だと?」
初めて見る男の様子に気圧され、アヤは視線を外すことも出来ず体を強張らせた。
「声……命が宿ったというのか? 一つの体に二つの命が……そんなことが……」
小声で呟きながら、男はふらふらとアヤに近づいてくる。禍々しい狂気を帯びた瞳。
「思わぬ形の成功……いや、これは……」
恐怖に支配され、アヤは思わず叫んだ。
「いや……来ないで、来ないでっ!!」
〈精神状態が限界だな。私がやる〉
その声の直後に起こった、再びの惨劇。しなる右腕が一瞬で伸び、男の胸部を貫いた。アヤが止める暇もない程の、刹那の出来事。
「……あ、あぁ……」
くずおれる男を見つめるアヤの目から、一滴の涙が零れ落ちた。
「私……は、なに? もう、人間じゃないの……?」
〈この腕は確かに人間の物ではないだろうな。だが、その涙はお前が人間であることの証だろう。少なくとも私には、涙は流せない〉
慰めのつもりなのか、それともただ思っていることを口にしているだけなのか、アヤの中に宿った存在は淡々と告げる。
「あんたも……なんなの? 私の腕を、こんなにして……」
〈この腕の変化は私の関与するところではない。私の意識が覚醒した時には、既にこうなっていた〉
「……やっぱり、ここの奴等のせい? 変な手術されたり……兵器にする為だって……」
これまでのここでの生活を思い返し、アヤの心を影が覆った。人間ではなく、兵器となる為の実験体として扱われてきた日々。
〈私はお前の味方だ。それは信じてもらっていい〉
「え?」
〈その上で聞こう。お前は今、苦しんでいるんな。その苦しみはどうすれば消える? お前はこれからどうしたいんだ?〉
突然の問い。これまでアヤは、したいことなど考えたこともなかった。ただ、実験体ではなく人間として……。
(……そう、そうだ)
アヤの中で、一つの答えが導き出された。アヤはいつも、ただそれだけを望んでいた。そして、今ならそれが叶うかもしれない。
「私は…………自由になりたい」
〈なら、そうすればいい。お前がそうしたいと言うなら、私はお前に力を貸そう〉
力強く帰ってきた声。その声に背中を押されるように、アヤは腰を上げる。
「じゃあ……逃げよう、ここから。でも……」
ゆっくりと立ち上がったところで、アヤはぴたと動きを止めた。
〈どうした?〉
「……あんた、本当に私の味方なの? 信じていい?」
〈……ふむ〉
やや考え込んだような間の後、突然アヤの右腕が顔の前まで持ち上がった。目の前で起こった惨劇を思い出し、アヤの体が恐怖に震える。
「イタッ」
だがその衝撃はアヤの予想に反して軽く、肉を裂く激痛も血の生暖かさもなかった。アヤの右手は、中指で自分の額を小突いただけだ。
衝撃に続き、僅かに機嫌の悪そうな声が聞こえた。
〈私は味方だ。お前が信用するまで続けてやろうか?〉
「分かった分かった、痛いから止めてっ」
自分の腕とじゃれ合うという傍目にはおかしなことをしながら、それでもアヤは鮮血と屍に満ちた部屋の中で笑っていた。
会話をするということ。人間として扱ってもらえるということ。例え、その相手が人間ではなかったとしても、今のアヤにはそのことがなにより嬉しかった。
「あんた、女の子でしょ」
〈私か? 身体を持たない私に性別などないと思うが〉
「ううん、たぶん女の子だよ。私には分かる」
〈そうか。まあどちらでもいいが〉
そんな他愛のないことを口にしながら、アヤは冷たい廊下を必死に走った。どこが出口かも分からない。出口の先になにがあるのかも分からない。
ただ、自由が欲しかった。
不思議な程に誰もいない廊下。もう誰もいないのか、アヤが逃げていることに誰も気付いていないのか。それとも、わざと見逃しているのか。
その答えを出す余裕もなく、アヤは足を動かし続ける。
やがて、アヤの目の前に大きな扉が姿を見せた。アヤを束縛から解放する、世界を隔絶する扉。
「…………」
深く息を吸い、アヤは扉に手をかけた。その細腕には重いはずの扉も、変貌した右腕のおかげですんなりと道を譲る。
「……これが……外?」
扉の先、アヤの視界に映ったのは荒れ果てて久しい廃墟だった。かつては大きな街だったらしいそこには、まだ昔の面影が随分残っている。
〈おい、あれを見ろ〉
「あれ?」
アヤは右腕が指す先に視線を向けた。誰も暮らせるはずのないその街に、確かに人影が見える。そして、その身体は明らかに人間のそれとは違っていた。アヤのように右腕だけではなく、全身が異形へと変貌している。
〈よく分からないが、あれもお前と同じなのか。どう見ても普通の人間ではないな〉
「多分、私みたいになにかをされたんじゃないかな……でも、なんで外にいるんだろ」
全身異形のそれは、アヤの姿を確認したらしくゆっくりと近づいてくる。どす黒く染まった身体を左右に不規則に揺らせながら、それの右腕が持ち上げられた。
「……ッ!」
アヤはハッと気付き、自分の体を見下ろした。アヤの服は、右腕が殺した二人の男の返り血を浴びて赤というよりどす黒く染まっている。
「あの身体……血、みたいね」
〈ああ。いい予感はしないな〉
「……ねえ」
アヤはその場所から動くことなく、静かに口を開いた。
〈どうした?〉
「私、自由になるよ、絶対。今覚悟した。とにかく、まずはこの街を出よう。これからなにがあるか分からないけど……全部、乗り越えてみせる」
〈……そうか。なら、その覚悟の程を見せてもらおう〉
異形の腕から、鈍く光る刃のような物が幾筋も生えた。その腕を持ち上げたまま、異形は足を止めることなく確実にアヤに迫ってくる。
アヤも右腕を上げた。近づいてくる異形に向けて、真っ直ぐに構える。その動きには微塵の躊躇いもなく、アヤのダークブルーの瞳には強い決意が浮かんでいた。
〜逃亡〜
今は廃墟と成り果てた、とある街。まだその街が街として機能していた頃、その街の中心にある大きな建物の中で一つの実験が始まった。
それは、命ある兵器を作り出す実験。実験体として老若男女たくさんの人間を集め、様々な手術を繰り返した。身体を強化し、異形へと変貌させ、命さえも作り出そうとしていた。
だが、自然の摂理を侵す実験から生まれたのはただの屍か、異形となり心を失った人間の成れの果て。それは失敗作として街にうち捨てられ、ただ本能に従い街の人間を殺した。赤黒く染まる異形の群れと、血肉の匂いに包まれる街。やがて、街は廃墟と化した。
異形が跋扈する街の中心で、今なお実験は続いている。
そして、数え切れないほどの失敗を繰り返した末に、たった一度だけ「成功作」と呼ばれるものが生まれた。
「……これで、何人目?」
〈何人と数えるなら、四人目だ〉
血飛沫を舞い散らせながら、アヤは異形の頭部から右腕を引き抜いた。
肉を貫く感触。返り血の匂いと温度。最初は吐き気をもよおすほど不快に感じた物に、アヤはすっかり慣れてしまった。
漆黒の髪がワインレッドに染まったとしても、ここから逃げ出し自由になるまで足を止めない。それが、アヤの覚悟。
アヤは血に染まった右腕から力を抜いた。異形の右腕はシュルシュルと音をたてるように長さを失い、その異様ささえもまるで作り物だったかのように、普通の腕に姿を変える。
〈もう完全に扱えるようになったな。便利な腕だ〉
「兵器、だからね……。それにしても、どこまで行けばいいんだろ」
随分走った気がするが、まるで街から出られる気がしない。
〈とにかく、今は進むしかないだろう。ここでこうしていても、襲われるだけでなにも解決しない〉
「……うん、分かってる」
アヤは形を持たない同行者に頷き、また走り出した。それも手術のせいなのか、実験体として捕まってからほとんど運動をしていないアヤだったが、どれだけ走ってもまるで疲れることがなかった。自分の身体がどこまで作り変えられているのかを考えるとアヤはぞっとしたが、今だけはそれがありがたい。
アヤは闇雲に走り続ける。目に映るのは朽ち果てた建物と、腐敗した屍の山。そして、ふらふらと彷徨う異形達。
そんな場所でアヤの目に映ったその姿は、夢の中に迷い込んだような錯覚をアヤに与えた。
異形に追われ、アヤの方に向かって逃げてくる一人の少年。どこからどう見てもその姿に異形の影はなく、それは間違いなく、ここにいるはずのない人間の少年だった。
「どうして、こんなところに……!?」
〈理由は分からないが、どうする? どこかに隠れてやり過ごせば、見つかることはないと思うが〉
「そういうわけにもいかないでしょ!」
アヤはスピードを上げ、少年に向かって疾走した。少年もすぐにアヤに気づき、驚愕とも困惑とも取れる表情を浮かべる。
「このまま走って!」
「えっ……!?」
すれ違いざま少年に声をかけ、アヤは異形に向けて右腕を構えた。アヤの右腕が禍々しく姿を変える。だが、それが異形を貫く前に異形も右腕を突き出し、二つの拳がアヤと異形の中間でぶつかった。
「ぐっ……!」
元が人間にしては太すぎる異形の腕。その外見に違わず、異形は凄まじい圧迫感でアヤの右腕を押し返してくる。
〈力では勝てないな。一度下がった方がいいんじゃないか?〉
「でもっ……」
声に従うことなく、アヤはかろうじて自分の背後に視線を送った。そこには、何が起こっているか分からず、ただ呆然と立ち尽くしている少年がいる。
「ッ……巻き込みたく、ないから……」
〈……仕方ないな、力を貸そう。そのまま拳を下げるな〉
「分かった、お願い……!」
言われたとおり、アヤは右腕を伸ばしたままの姿勢で必死に堪えた。少しずつ、右腕になにかが込み上げてくるような感覚がある。
もはや押し切られると思ったその時、突然アヤの右腕が回転するように細く鋭くなり、異形の右腕を肩口まで貫いた。
「っ!」
〈後はとどめだ〉
アヤは驚きのあまり一瞬動きを止めたが、すぐに身体を捻り右腕を左に下げた。そこから、全身を使って遠心力を乗せ、一気に右上に切り払う。腹部から胸部にかけて身体を両断され、異形は重い音をたてて血で濡れた土の上に崩れ落ちた。
〈本当に便利な腕だな〉
「おかげで、私はどんどん人間離れしていくけどね……」
そんなことを口にしながら、アヤは右腕を元に戻す。その腕を見つめ、心深くから沸き起こる感情を、アヤは無言で振り払った。
「……あっ」
思い出したような声を上げ、アヤは後を振り返った。そこには、やはり少年が立ち止まったまま固まっている。
「大丈夫だった?」
少年に歩み寄り、そっと手を差し出すアヤ。少年は大袈裟なほどにビクッと身を震わせ、恐る恐るといった様子でアヤを見つめた。
「……怖いよね、やっぱり」
アヤは手を引くと、作り笑顔を浮かべて少年に背を向ける。
「ここは危ないから、早く逃げた方がいいよ」
それだけを告げて、その場を離れようとアヤは足を踏み出した。
「あ、あの」
少年の声に、アヤの足が止まる。アヤが振り返ると、少年はまだ顔を強張らせたまま、それでも笑顔で頭を下げた。
「助けてくれて、ありがとうございます。あの、どこに行けば逃げられるか、分からないんですけど……」
「私にも分からないの。ごめん」
「……そうですか……」
項垂れ、暗い声を出す少年。アヤは少年に背を向けることが出来ず、二人はその場で立ち尽くしていた。
〈どうした、逃げないのか?〉
「うん、逃げるけど……」
アヤは少年へ視線を向けた。少年は相変わらず俯いたまま黙り込んでいる。
「ねえ」
「あ、はい」
「一緒に行く?」
「え?」
アヤの言葉に、少年は目を丸くした。
「でも、どこに行けばいいか分からないって……」
「うん、分からない。だから、とりあえず歩き回ることになるけど、それでいいなら」
出来るだけ優しく、アヤは少年に笑いかける。少年の顔には、まだ少し恐怖が浮かんでいる。アヤは、少しでもそれを拭いたかった。
「どうする?」
「…………」
〈私は推奨しないな。危険が増すだけだ〉
「仕方ないじゃない。このまま見捨てるわけにもいかないし」
「はい?」
「ああ、なんでもないの。気にしないで」
不思議そうにアヤを見つめる少年に、アヤは苦笑いで答えた。
少年はしばらく逡巡していたが、やがておずおずと口を開いた。
「……本当に一緒に行っていいですか?」
「うん」
「じゃあ……お願いします」
少年の顔から、やっと恐怖が消えた。アヤは少年に向けてそっと右手を差し出す。
「私はアヤ。あなたは?」
「僕は……」
少年は確認するようにアヤの右手を凝視した。やがて、自らの右手を伸ばしてアヤの手をそっと握る。
「僕はユウです。よろしく、アヤ」
二人の手が静かに繋がる。人間とは違う力を持ったアヤの右腕は、初めて傷つけることなく人間に触れた。
〜悲恋〜
隣を歩く、自分より少し背の低いユウに、アヤは視線を向けないままそっと声をかけた。
「……ねえ、ユウ」
「なんですか?」
「ユウはどうしてここにいたの?」
それは、アヤにとって聞きづらい質問だった。おそらくは同じ境遇であるユウにとって、それが答えづらい質問だと分かっていたからだ。実験体としての毎日を思うことは、アヤの心に痛みしか生み出さない。
アヤはそう思ったのだが、ユウはそんなアヤの内心をよそにあっけらかんと答えた。
「それが、よく分からないんです。気付いたらここに連れて来られてて」
「なにもされなかった?」
「いえ。何度かよく分からない検査や手術をされましたけど。昨日、『もうお前は必要ない』ってここに置き去りにされて……」
アヤは首を傾げた。ユウの言っていることがどんな意味を持っているか、アヤには分からない。だが、ユウがアヤのような生活を強いられていないらしいことは救いだった。
「……僕も一つ聞きたいことがあるんですけど、いいですか?」
「うん?」
アヤがユウの方へ目を向ける。直後、アヤはユウの身体を強く抱き寄せた。
「ぁ、あの……」
驚き、ユウが声を上げたのとほぼ同時、アヤの右腕がユウの目の前で姿を変えた。その腕は、家の影に姿を隠していた異形の首をしっかりと掴み、そのまま首を握りつぶす。異形の頭部は胴体から分断され、人形のそれのようにあっけなく地面に落ちた。
「なに? 聞きたいことって」
右腕を元に戻すと、アヤは胸に抱いたままのユウの顔を覗き込んだ。
「あ、その……えっと……」
やや頬を朱に染め、ユウはもごもごと口を動かしている。その姿がなんだか微笑ましく、アヤは思わず吹き出してしまった。その笑い声に、ユウはさらに頬を染め、俯いて黙り込んだ。
「あは、ごめんごめん。ユウ、ちょっと休んでいこうか。ユウの話もちゃんと聞くから」
アヤはユウの返事を確かめることなく、手近な家の中へユウを促した。その家はほとんど損壊がなく、テーブルやベッドも家主がいた頃のままであろう様子で残っている。
〈いいのか、早く街を出なくても〉
「大丈夫、この様子だとなんとかなりそうだし。ユウに無理させるわけにもいかないしね」
ユウに聞こえないように小声でアヤは答えた。ユウの様子を窺うと、やはり疲れているのかベッドに腰を下ろしてボーっと目を泳がせている。
アヤもベッドに歩み寄り、ユウの隣に勢いよく腰を下ろす。布団が沈み込む音と同時に、放置された年月を物語るように埃が舞い上がり、部屋に充満した。
「それで、聞きたいことってなに?」
アヤが問いかけると、ユウはどこか申し訳なさそうにアヤの顔を見つめ、やがて小さく口を開いた。
「……アヤの、その腕はどうしたんですか?」
その言葉を聞いたとき、アヤは強張る自分の表情を隠すことが出来なかった。拳を強く握り、歯を食いしばって、湧き上がる怒りを必死に抑える。
「…………ユウと同じで、私も随分前にここに連れて来られたの。そして、何度も手術を受けて……ユウはなにもされなかったみたいだけど、私の腕はこんなにされた。『お前は兵器だ』って、それだけを何度も聞かされて……」
話しているうちに、アヤの瞳からは涙が溢れていた。激しい怒りは、いつの間にか心を引き裂かれるような痛みに変わっている。涙は次々に零れ落ち、囚人服のようなアヤの服を濡らしていく。
「どうしてこんなことになったんだろ……。必死に逃げてきたけど、本当はこれからどうすればいいのか、全然分からない……ただ、自由になりたかった……。でも、いくら自由になったって、こんな化け物になったらもう……」
「アヤ」
独り言のように言葉を吐き出していたアヤを遮るように、ユウはアヤを抱きしめた。
人の温もり。人に抱かれる安らぎ。アヤの痛みは、まるで水に溶けていくように静かに薄れていく。
「……アヤは化け物じゃない。アヤは僕を助けてくれた、優しい人間です。一緒に自由になりましょう。僕はずっとアヤと一緒です」
「ユウ……ありがとう」
アヤはユウの背に腕を回し、その身体を思い切り抱き寄せた。アヤよりも小柄なはずのユウの身体が、随分大きなものに感じる。命を奪うために作られた右腕で、アヤはユウの頭を引き寄せる。
静かな廃屋の中で、お互いを求める息遣いだけがやけに大きく響いた。
静かに寝息を立てるユウを起こさないように、アヤはユウの前髪をそっと撫でた。返り血を浴びて固まっているアヤの髪とは違い、ユウの髪はまだ清潔感を保ったままでさらさらと指の隙間を流れる。
その感触を楽しんでいると、声がアヤに語りかけてきた。
〈どうした?〉
「……なにが?」
〈何故泣いている? まだ苦痛を感じるのか?〉
アヤは頬を拭った。僅かに頬を伝っていた涙が、アヤの指で光っている。
「痛いからじゃなくて、嬉しいから泣いてるの」
〈嬉しい? 嬉しいのに何故泣く? 人間は嬉しい時笑うものだと思っていたが〉
「もちろん笑うよ。でも、嬉しくて流れる涙もあるの。痛くも苦しくもない……これは、あったかい涙だよ」
〈……私には理解しかねるな〉
そう言って首を傾げる姿ないはずの声の姿を、アヤは見たような気がした。瞼に映ったその姿が、命を奪い取る右腕とあまりにかけ離れていて、思わずアヤは笑ってしまう。
〈なにがおかしい?〉
「あんた、やっぱり女の子だったよ。思ってたよりずっと可愛かった」
〈? なんのことだ?〉
「いつかあんたが人間になったら分かるよ。その時には、たぶん嬉し涙の意味もね」
その言葉に、声の向こうにいる存在が息を飲んだのが、アヤにも分かった。
〈人間に? 私が? なれるわけないだろう〉
「なんで? 私の腕もこんなになったんだから、あんたも人間になれるかもしれないでしょ。自由になったら一緒に探そう、人間になる方法」
〈……人間、か……。ところで、一つ聞きたいんだが〉
珍しく声からアヤに問いかけてきた。アヤは間の抜けた顔で首を傾げる。
「なに?」
〈自由になったら、お前はなにをしたいんだ?〉
「そうねえ……」
ひと時の安息の時間の、他愛ない会話。眠っているユウを起こさないようにそっと、二人の会話はしばらく続いた。
「まだ眠い?」
「いえ、大丈夫です。ただ、なんだかボーっとして……」
休憩を終え、二人はまた街の外へ向かって進みだした。無理に起こしたせいか、ユウはまだ完全に意識が覚醒していないらしく、ふらふらとした足取りでアヤの後をついて来る。
「大丈夫かな……」
〈気を抜くな。こんな所で死ぬわけにはいかないだろう〉
「うん、約束したしね。……ユウ、頑張って」
笑顔で声に頷き、アヤは後を歩くユウに視線を向けた。重い足取りで歩くユウの背後に異形の姿を確認し、アヤの表情は一瞬で険しさを増す。
「ユウ、逃げて!」
叫びながら、アヤは右腕を異形に伸ばした。だが、
(間に合わない……ッ!)
アヤの腕が異形を貫くより早く、異形の振り下ろす腕がユウの身体を両断しようと迫る。
「ユウッッ!!」
悲痛な叫び。その声の直後、アヤの顔は驚愕の色に染まった。
異形の身体を貫いたもの。それは突然ユウの背から服を突き破り生えた、禍々しい一対の棘。
「……ユウ……それ、まさか…………」
「アヤ……体が、熱い……。それに、声が……聞こえ……」
苦しげにそう言ったユウの腕が、足が、身体のすべてが、人間ではないものへと形を変えていく。
やがて、ユウの身体が完全に異形へと変貌した時、アヤの瞳から涙が零れた。それは一粒の、痛みの涙。
「…………どう、して……」
〜真実〜
「今頃、あの実験体はどうなっているでしょうか」
「例の成功作のことか? 覚醒するのもそろそろのはずだ。ゆっくりデータを取った後で、然るべき処理をすればいい。試作としてはそれで充分だ」
「失敗作が一体逃亡したとの情報があります。なにか興味深い結果が出たとか」
「ああ、あれか。強化した右腕に命が宿ったらしい。もっとも、本当に命かどうかは怪しいところだが」
「命、ですか? ですが、一つの身体に二つの命というのは……」
「そうだ、有り得ない。確かに興味深いのだが……だが、人間の意識を保っている以上、兵器としては使えん」
「そうですね」
狭い部屋で交わされる会話。その言葉は、白衣を着た二人の男以外誰にも、実験体と呼ばれる本人達にさえも聞かれないまま、淡々と記録されていった。
「……なんだ、お前は」
もはや人間ではなくなったユウの口が、冷たく言葉を吐き出す。
「……ユウ、あなた……」
「ユウ? なにを言っている。お前のこの腕はなんだ、お前は我と同じ存在か?」
異形の手がアヤの右腕を掴んだ。人間とはかけ離れた力。アヤの腕が姿を変えていなければ、おそらく一瞬で握り潰されるであろう程の力で、異形は掴んだアヤの腕を振り払った。
「ッ!」
〈気をつけろ、こいつは既にあの男とは違う存在だ。殺さなければお前が殺される〉
「……、でもっ……!」
「その声は我と同じ存在だな。人間の中でなにをしている? さっさとその身体を侵食すればいいだろう」
アヤは目を見開いた。アヤにしか聞こえるはずのない声。その声が、目の前の異形には確かに届いている。
「ユウ、この声が聞こえるの!?」
「黙れ、人間。我はその声の主に話している」
「うっ……」
射抜くようにアヤを睨み付ける異形の瞳。初めての恐怖に、アヤは言葉を失い一歩後ずさった。
「どうした? 簡単なことだろう、その人間の精神を喰えばいいだけだ」
〈……何故、そんなことをする必要がある?〉
「何故、だと? 我らは人間を殺す為に生まれた。今のお前は、おそらくその人間にあらゆる制約を受けているだろう。それでは我らの存在意義を果たせない」
〈私の存在は、人間を殺すためにあるわけではない。この人間を守る為、この人間と共にある為に、私は今ここにいる〉
「……何を言っている? 我には理解出来ない」
〈出来なければ理解する必要はないだろう。私も、お前の言うことを理解するつもりはない〉
「…………」
異形は口を閉ざし、軽く首を振るような仕草を見せた。そしてゆっくりと上げられた視線は、少しもぶれることなくアヤに注がれている。
「……ユウ?」
「ならば、理解するのは止めよう。我は我の存在意義を全うする」
そう言うと同時に、ユウはアヤへ向かって突進してきた。数歩分も開いていた距離が、一瞬で詰められる。
「ユウッ!」
アヤはかろうじて声を出したが、身体までは反応出来ない。異形の腕が、アヤの目前まで迫る。
だが、その腕がアヤの顔を貫こうと届く前に、アヤの右腕が目前に迫る腕をかろうじて止めた。
「……! ハァッ、ハァッ……!」
〈大丈夫か?〉
「……うん、ありがと」
異形の腕を振り払うとアヤは後ろへ大きく飛んで距離を取り、何度も荒く息を吐き出した。
「本当にその人間を守るというのか?」
異形はアヤを、アヤの中に宿る者を責めるように視線を向けた。
〈今そう言った。偽りはない〉
その視線に臆することなく、声は異形に答える。互いに、引くつもりは微塵もないらしい。
その中でアヤだけが泣きそうな表情を浮かべ、震える声で異形に話しかけた。
「ユウ、元に戻って……もう止めよう……」
「ユウとはなんだ? お前はなにを言っている?」
〈諦めろ。あれの中身はもうユウではない〉
「違う! あれは、ユウだよ……きっと元に戻せる……。ね、ユウ……お願いだから、目を覚まして。一緒に逃げよう」
ふらふらと、おぼつかない足取りで異形へ近寄るアヤ。異形は表情を変えることなく、向かってくるアヤに殺意を込めた視線を注ぐ。
〈アヤッ! ……仕方ない、私がやる〉
アヤの右腕が瞬時に伸び、異形の頭部を掴んだ。異形は虚を付かれたのか、避けることもせずその場に立ち竦んでいる。そのまま握り潰そうと、声は右腕に力を込めた。だが、腕にはそれ以上力が入らない。
「止めて……ユウを、殺さないで……」
〈アヤ、あれはもう……〉
アヤは俯き、涙を流していた。右腕は完全にアヤの意識下にあり、声にはそれ以上どうすることも出来ない。
すると、頭部を掴まれたままの異形が怪しげに口元を緩ませた。
「なるほど、この身体はこういう使い方もあるのか」
そう呟き、異形は左腕をアヤに向けて構えた。その腕が別の生物のように蠢き、少しずつアヤとの距離を縮めていく。
〈アヤ〉
「…………」
突然、異形の腕が一気に伸びた。腕は狙いを狂わせることなくアヤの心臓をめがけて迫り来る。
〈アヤッ!〉
「……ッ!」
アヤは目を閉じ、右腕に力を込めた。異形の鋭い爪がアヤの左胸に突き刺さり、その腕をアヤの血が伝っていく。だが、異形の腕がそれ以上アヤの身体を傷付けることはなかった。
肉も骨も、アヤの右腕は掴んでいたすべてを握り潰した。その腕は重い音を響かせ、周囲に鮮血を撒き散らせる。
「…………」
返り血を浴びながら、アヤはその場に立ち尽くす。その瞳は暗く沈み、もう涙を流すことさえなかった。
〜別離〜
どこへとも知れず、アヤは無言で足を動かし続けた。目の前に異形が現れようと、攻撃する素振りも見せない。ただ右腕だけが、アヤを守る為に赤い雨を振らせ続ける。
〈アヤ、しっかりしろ〉
「……」
〈自由になるんだろう?〉
アヤは地面に座り込んだ。力のこもらない声で、独り言のようにぶつぶつと呟く。
「……自由になっても……もう、ユウは……」
〈言っていただろう、『全部乗り越えてみせる』と。私と約束もした。あれは全て偽りだったのか?〉
「…………ごめん……ごめん、ね」
それは、誰に対する謝罪だったのか。アヤはその言葉を告げると、自らの首を右手で掴んだ。今右腕の力を解放すれば、アヤの首は間違いなく握り潰され、アヤの命はここで尽きる。
〈アヤッ、止めろ!〉
「もう、いいよ……なにもかも……」
アヤは笑っていた。希望ではなく、絶望に染まった笑顔。声は理解した。もう、アヤを救うは出来ないのだと。
理解するのと同時に、声はそれを行っていた。アヤの精神を喰らい、アヤの身体を侵食すること。せめて自分だけはアヤのことを忘れず、アヤと交わした約束を守る為に。
(……ありがと)
アヤの声が聞こえた気がした。手を伸ばし、その姿を捕まえようとする。声を張り上げ、その姿を引きとめようと……。
「アヤッ!」
だが、伸ばされた手は虚しく空を掴み、口から吐き出された名前はその持ち主を見つけられず、静かに廃墟に溶けていった。
少女は走った。街から出ることさえ忘れ、ただ闇雲に走った。その途中、姿を見た異形を何体殺したかも分からない。足が動く限り走り続け、やがて血だらけの足が止まり座り込んだ時には、街の出口まで辿り着いていた。
雨が降っている。いつから降っていたのか、少女はまるで気づいていなかった。俯くと、濁った水溜りに少女の顔が映っていた。それを見て、少女は自らの頬にそっと触れる。
「アヤ……」
少女が口を開いた。雨音にかき消され、その独白は少女にしか聞こえない。もっとも始めから、それを聞かせる者はどこにもいない。
「お前が言ったとおりだな……私は人間になれた。可愛い女の子だ。お前の身体を貰ったんだ、当然だな。あと一歩進めば、やっと自由だ。約束通りだぞ。……そうだな、ソフトクリームも食べられる。お前が好きだったんだ、私もきっと好きになる」
そこで一度口を閉ざし、少女は高く灰色の天を仰いだ。
「だが……」
それは、水溜りに映る少女の泣き顔を見ない為。ただ一つだけ、それを理解出来なかったことを悔やむように少女は乱暴に瞳を拭った。
「これが涙か……痛いな。私には重すぎる。すまない、アヤ。嬉し涙だけは……私には、理解出来そうにない」
少女は空に向かって腕を伸ばした。今は人間の形をしている右腕。
血も、涙も、痛みさえも、すべてを洗い流してもまだ飽き足りないように、涙雨はしばらくそこに降り続いた。